今日はいつもと違うテイストの記事にします。
過激思想入ってますのでご注意を、
今日昔の職場に顔を出しました。
私の人生において最も大切で猛烈に生きたという感覚がある場所です。
なぜそこを離れたのかと言えば、やり切った感と自分の力を次のステージで試してみたかったから。それに尽きます。
でもやっぱり全力で生きていた。と言う過去が大きな多幸感を与えて、今の生活が本当にやりたいことであるかどうかを考えさせられるそんな時間でした。
しかしこれが私にとっての本当の幸い。
人の幸せな尺度はそれぞれで、私は恋愛に対してそこまでの魅力を感じていないのが現状です。
否定してるわけではなく、大多数の人が恋人と過ごすことに幸福を感じ、共に生きるために働くと言う事だろうと思ってます。
だからそうやって生きると仕事はつまらないし、趣味もないのかと思ってます。
私は人のために生き、その人が幸せに生きていることに多幸感を感じます。
だから今の教育の仕事が好きだし、生き甲斐だろうと思ってます。
最近感じるのは努力とは何かと言う事。
私の人生は他人から見たらストイックな生き方なのかもしれない。
筋トレをよくそこまで本格的に出来るね。
とか
よくそんなに熱を持って仕事できるよね。
とか
こんなに数学教えるのがうまくて出来る人初めて見た。
この辺をよく言われます。
ただこれは私は努力したとは思っていなくて、ただその瞬間自分が最もやりたいことをやり続けてるだけ、
他人から見たら苦痛なことを楽しんでやってるだけなのかもしれない。(←私はそうだとは思ってないが)
筋トレや勉強はSNS等で努力した結果こうなった。みんな見てくれ俺はこんなに頑張っているぞという人達を見ますし、そのコメントはその努力を讃えるもので溢れています。
でも、この人達は自分はきついことを人より頑張っていると言うネガティブな気持ちを持っているのでしょうか、(もしくは初期はそう言う気持ちがあったのだろうか)と考えてしまう。
私はその瞬間を生きた結果、自分のやりたいことをやった結果、今の自分がいてたまたまそれが他人に評価されることであったと思ってます。
ではこの感覚を今私の前にいる生徒たちに共有できるのであろうか、
他者に対して敢えて思うことは、世間的にいいと言われることをしようとし過ぎなのではないか、もっと自由に生きるべきである。
受験指導の中で自由を勝ち取るための大学受験は事実あると思うしここは頑張るべきであろうと思う。
でもそんなに受験が嫌なら浪人はせずに現役で受かった大学に嫌でも行くべきなのではないか
プライドと自分の苦痛どちらをとるかと言うことです。
私は
次に進む事、やりたい事がないなら自分の世界を広げるために挑戦して、人と出会い、そして本能の赴くままに生きる事
これが本当の幸いなんじゃないかなって思います。
超過激な発言ですが、それでも生きる意味を見出せないから、大切な人を作り、その人のための生きればいいと思う。私はその感性はないです。
ただそれだけ。
1人を特別に愛することはないけど、自分に関わった人全員を愛しています。
でも1人にかかる愛は薄いのだと思う。
そんな生き方をしていこうと26歳周りが結婚し始めた中思ってます。
特殊な生き方考え方、見方によってはただ恋愛から逃げてるだけに見えるかもしれないけど、同じように思ってるまた自分の生き方に自信がない人の役に立つ記事になればと思う。